コロナコロナで1年すぎた
2020年3月3日、10時20分発のANA便でジャカルタに出発するはずだった。3月5日開催予定の私たち「顔・身体学領域」とインドネシア科学院(LIPI)との共催シンポジウム"Performing Self and Playing with Otherness: Clothing and Costuming under Transcultural conditions"に参加するためであった。当時、すでに各地から感染拡大のニュースが届いていたので、ちょっとヤバイかも、とは思っていたが、インドネシアではほとんど感染者が出ていなかったので、「これで、行けそうだな」との気分の中、前日の2日の夕方には荷づくりも完了、19時過ぎにはオンランチェックインも済ませて一段落。さて最後の確認をと思ってメールボックスを“開けてヤッパリ玉手箱”、ならぬ、吉田(ゆか子)さんからのメールが飛び込んできた。「取り急ぎ、まずは中止のお知らせのみ」とあった。ああ!
その後は、みなさんもご存じのように、感染状況がどんどん深刻化して、勤務先の大学では、修了式、修了パーティ、入学式など一連の行事がすべて中止。国のレベルでも、3月25日に五輪中止発表、4月7日に緊急事態宣言発出、となり、5月25日に緊急事態宣言こそ解除はされたものの、その後は、コロナコロナで、2020年はあっという間に過ぎ去ってしまった…。この感覚はいまなお消えていない。
そして、そんな心境でいる本日1月8日、1都3県に再び緊急事態宣言が発出された。
これはみなさんとは関係のないことだが、いつも締め切りぎりぎりで仕事をしていて、このブログもそんなぎりぎり感の中で書いている。だから、どれだけのことが伝えられるかわからないが、昨年の3月3日以来、やったり考えたりしてきたことの一端を書いておきたい。そんな思いで、このブログを書いています。何枚か写真も入れてみました。
なお、以下、気分不安定で書いているため、「です・ます」と「だ・である」が渾然と混じっています。ご容赦ください。
見よう見まね、疑心暗鬼で始めたオンライン会議
感染症の広がりは、生身の身体を介した意見や気持ちの交流を阻害した。もともと旧世代の人間でアナログ至上主義を信奉している人間にとって、つまりは、会って話せばすぐ通じるのに、メールだとなんでこんなに面倒くさく、話がこじれてしまうんだろう、いつもそんなふうに感じてきた人間にとって、この状況はつらい。
しかし、オンライン会議のツールが日々、改良され、私のようなものでさえ、比較的容易に活用できることが分かるにつれ、これまで地理的に隔てられて交流のできにくかった人々同士の意見の交換を可能にすることが実感できるようになった。国内でのミーティングばかりでなく、外国の研究者や旅行中の研究仲間との交流でさえいとも簡単に可能にしてしまう。とりわけ、ライヴでなきゃいけない(会社に置き換えれば、出勤しなきゃいけない)というプレッシャーが世の中全体で薄まったことが、オンライン会議や在宅勤務の可能性を拡げたように思う。これは不幸中の幸いであった。
ところで、私は、社会デザイン学会という立身出世、地位名誉、お金儲けとは縁のない学会の会長をしているが、どんな学会でもほとんどそうだが、学会の運営費は会員の会費で賄われている。しかし、今回のように通常の学会活動ができない状況では、言い換えれば、会費に見合ったサービスを提供できない状況では、会費の支払いも滞納の通知なども、ましてや新会員の勧誘もなかなかしにくい。そんな状況を救ってくれたのが、オンライン会議ツールの活用だった。
じっさいに社会デザイン学会でも、昨年5月、緊急事態宣言の解除後も、おそらくはsocial distancingの必要とされるであろうと心を決め、あと数か月のあいだは、会員との距離をむしろ近くできるチャンスだと考えなおし、翌6月から毎月1回の頻度でZOOMを使ったオンラインレクチャーを開始、いまなお継続中である。
ここで特筆しておきたいのは、オンライン会議が、こんなふうに活用できるんだ、ということを真に実感させてくれたのは、6月13日・14日に行われた第6回領域会議のオンライン開催の成功体験だった。まことに見事、としか言いようのないくらい細かく配慮の行き届いた運営の仕方に感動するばかりだった。
いうまでもなく、オンライン会議のすべてが素晴らしいわけではない。大学でのオンライン授業の様子などを聞いても確認できたことだが、オンライン会議では、通常時以上の濃密な意見交換の場を持つことができる。しかし、同時に、パソコン画面を数時間にわたって凝視することからくるストレス。そして、移動の手間がなく、自分が今いる、その場所でミーティングが簡単に招集できるので、ついつい過密スケジュールに陥ってしまうリスクがある。毎年、夏の間はほぼ1か月、パリで過ごすことを習慣としてきたが、その第一の目的は、自己隔離のためであった。ところが、オンライン会議のせいで、それが不可能になった、いつでも、どこにいても、オンライン会議が追いかけてきたからである。しかも、(国内でのオンライン会議では気づかないが)ヨーロッパやアメリカ、もちろんアフリカでもそうだが、時差の問題があった。ある会議など10時開催といわれたが、え、それって、パリでは朝3時じゃない、と気づき嘆息したものである。
パンデミック状況下で〈人類〉の文明の行く末について考える
新型コロナウィルス感染症によって発生した世界的なパンデミック状況は、やや大げさな言い方をすれば、「いまや地球規模で見直しが迫られつつある私たち人類の文明の将来と個人一人ひとりの選択のあり様についていまこそ真剣に考えるべき時期にきた」(2020年度社会デザイン学会大会テーマ)との思いを強く抱かせた。
そこで、以前からじっくり話を聞きたいと思っていた、食文化研究の仲間でもある山極壽一氏(京都大学前学長、学術会議前議長)にレクチャーを依頼、私との対論も組み込んだ企画をつくり、11月30日に実現させることができた。テーマは「パンデミック状況下で〈人類〉の文明の行く末について考える」とした。
山極さんと話したいと思っていた具体的なトピックスは、3つあった。
ひとつは、「生命の共同体」について。2つめがsocial distancingと身体間距離に関わる問題系。3つめが、サイボーグ化する人間身体に関わる問題について。
いずれも、まったく新しいトピックスではないが、今回のパンデミック状況が、私たちの身近な問題として一挙に浮上させてきた人類の文明の行く末(プラスに転ぶか、マイナスに転ぶか)に関わる事柄である。このブログでは、残念ながら、山極さんとの話の内容について詳しく紹介する余裕がない。ここでは、今回の企画の意図について、いくつかの補足情報を加えながら、紹介するにとどめたい。
生命の共同体
ひとつめの「生命の共同体」についてとは、何のことか。私たち人類がこの地球上で他の無数の植物や動物、そして菌糸類や細菌類(腸内細菌なども含む)とともに同じ生存空間を共有していること、たんに生存空間を共有するだけではなく、私たち自身が「生命体」というひとつのコミュニティの一員として他の生命体と相互に依存する関係にあるという事実、そして、共存するにはそのための知恵を育んでいかなければならないという事実、そうした、いずれも私たちが日常なかなか認めたがらない事実をパンデミック状況は、悲劇的なかたちではあるが、教えてくれた。
ジャレド・ダイヤモンドがすでに『銃・病原菌・鉄』(1997年、注1)の中で繰り返し指摘していたように、ウィルスによる感染症は、いまから約1万数千年前に人類が農耕と牧畜を開始し動物と共棲する生活様式を選んだとき以来、言い換えれば、人類が農業生産を向上させ人々が集住する都市文明を築き上げてきたとき以来、不可避の条件となってしまったからだ。
ところが、これもまたご存じのように、ウィルスにはウィルスの生き残りの知恵があり、発症は抑えられてもウィルスを撲滅することなどできないのが実態だ。言い換えれば、いくつかの国の愚かな政治家がいったような「ウィルスとの戦争」などしても勝ち味はなく、飼いならすほかないし、これまでも人類はそうやって長い時間をかけて(たとえば、抗体保持者が人口の2/3前後になるまで家族や知人の亡くなる悲しみに耐えながら、あるいは、ワクチンや治療薬の開発によって)、共存してきた、それが歴史の真実であった。
そこで、急速に浮上してきたのが、動物との共存に関わる問題系である。わかりやすく言えば、牧畜の問題、さらにわかりやすく言えば、肉食の是非をめぐる議論の浮上である。すでに、菜食主義の運動は、少なく見積もっても200年の歴史をもつが、「家畜工場」だとして動物福祉の活動家から非難を浴びているアメリカ式の大規模食肉生産システムのはらむ問題(健康、環境、穀物飼料の大量消費からくる人間の飢餓、動物虐待)から、肉食そのものが批判される状況がコロナ禍でさらに表面化したと思われる。
加えて、近年は、野生動物を食べることを含め、野生動物の生存圏を人間が侵食する速度がどんどん速まってそれまでは人間界から遠い場所で生息していたウィルスが中間生物(ウィルス・リザーヴ)を介して人間を標的とする感染症を引き起こす状況が、ますます加速されるようになってしまった。1980年初めのエイズ感染症、その後のエボラ出血熱、SARS、MARSなどコロナウィルス感染症などが、その代表例であろう。この点においても、議論の相手を、霊長類学者の山極さんにお願いしたのは正解であった。
Social distancing
2つめのトピックスは、social distancingやマスクの着用等によって、身体接触の機会と密度を制限されることへの根強い抵抗が―アジア地域を例外として―世界各地で確認されたという事実である。当然ながら、身体間のバリアが弱ければ感染のリスクは増大するが、それを知ったとしても、それ以上に、生身の他者との接触(あるいは接近)を欲求する人々がこれほど大勢いるという驚くべき事実。一言で言えば、私たち人類が「人間」であるためには、他の人びとや事物との直接的かつ生々しい関係が不可欠だという現実を突きつけられたということ。
しかし、ここで話題にしている身体接触の問題の面倒くさいところは、それが物理的な問題なのではなく、感覚的な問題だという点にある。たとえば、いくら「三密を避けよ」といったところで、本人の感覚では規則も忠告も順守しているつもりなのだから、始末に終えない。まさしく、聞くと見るでは大違いなのであった。
次の写真は、ヴァカンス明けの昨年9月はじめのパリの街角風景である。写真はたくさん撮ったが、どれも、三密ならぬ千密状況を示していたので、この1枚だけで十分だと思う。
歩いている人たちはそのほとんどがマスクをしているが、カフェのテーブルについている人たちのほとんどがマスクなし。これで、1時間ほどおしゃべりを楽しむわけだろう。若い人たちは自分は発症しなくても、確実に周囲の親しい人びとを感染させる。街頭の掲示でも、TVでも、メトロのアナウンスでも、マスク着用、social distancingを呼び掛けているのだが、効果がない。じっさい、ヴァカンス明けのパリでは、感染者が急増した。
では、なぜ、効果がないのか。繰り返しなって恐縮だが、いちばん大きな理由は、本人たちは規則を守っているつもり、だからという点にある。

パリ、2020年9月12日
ガヴァナンスの困難をいっそう深刻化させた
「自分たちはこんなに規制を守っているのに、それでも感染が抑え込めないのは政府の責任だ!」
この親方三色旗的なメンタリティ(最終的には政府が責任を取る、あるいは取らせる心性)。こうした心的傾向はフランスの近代史の中でこれまで何度も指摘されてきた特色だ。
この春以来のフランス当局の対応を見て感じたことは、おそらくは「黄色いベスト運動」(mouvement des gilets jaunes)のトラウマであろうか、最初は厳しい規則を提示しながらも、現実には、緩い規則しか出せない、それだと規則は守られない、したがって、感染症は抑えられない、仕方がないから規制を強化する、すると今度は抵抗が大きくそれを守らせるのに苦労する、だから感染を止められない、さらに規制を強化、すると人々は生活も経済活動も「抑圧」されたと感じて欲求不満をどんどん加速させていく、そういう一連の流れである。このプロセスの繰り返しが、現在のフランス政府のコロナ対応の特徴だと思われる。非常に深刻な状況だ。いうまでもなく、反マスクの運動(運動とまでいかなくても、マスク拒否の傾向)は欧州でも、またアメリカでも根強い。
身体接触への圧倒的な希求
山極さんは、前述のレクチャーの中で、人類の発達において家族が担った役割や意味、その本源的な特徴や親密性の表現などについて語ったが、その際、人類だけでなく他の霊長類のいくつかにおいても親しい者同士がどのようにして相互の確認を行っているかについても語ってくれた。そして、そうした相互確認の行為が至近距離での生々しい状況の中でーあたかもハグでもするかのような仕草でー行われていることを、自ら発見して驚いたことがあると語ってくれた。さきほど、私たち人類が「人間」であるためには、他の人びとや事物との直接的かつ生々しい関係が不可欠だという現実がある、と私自身も書いたことだが、それは、前掲のカフェの光景でも確認できるが、次の2枚の写真は、いまコロナ禍の中で人々が何を奪われたと感じ、何を希求しているかを、まさにそのものずばり、表現したものである。街角でこのポスターを目にしたとき、これこそ「聞くと見るでは大違い」の証拠写真のようなものだと納得したものである。


パリの街角でみた、「キスをする2人」のポスター(マスクあり、マスクなし)、2020年9月初旬
外出制限下での秘密パーティの続発
他の人びとや事物との直接的かつ生々しい関係を求める欲求は、さまざまの形で噴出しているが、その代表例が、秘密パーティの開催であろう。フランスに限っても、すでに、マルセイユ、パリ郊外などでも、いくつかの事例が知られていたが、次の事件は、CNN(日本語版、2021年1月2日)でも紹介されたので、抜粋を下に掲げておく。若者を中心とした年越し記念のrave-partyだった。
(CNN) フランス北西部ブルターニュ地方で、新年を祝う違法な音楽パーティが開催され、2500人以上が参加した。現在フランスでは、新型コロナウィルスの感染拡大防止のための厳重な行動規制や夜間外出禁止などの措置が取られている。地元当局は1日、「12月31日の夕方からリュロンの町の工業地域に数百台の車が集まりだし、音楽パーティの準備を始めた」と述べた。地元警察がパーティを中止させようとしたが、「激しく抵抗された」という。また当局は「1台の警察車両が放火され、他の3台も破損した。また兵士たちも瓶や石を投げつけられ、軽傷を負った」と付け加えた。パーティの参加者は推定2500人で、フランス国内の様々な県や海外から来ていたという。フランスでは12月15日から、午後8時から午前6時までの夜間外出が禁止されている。(注2)
最近、この種の秘密パーティ(ロックダウンパーティと呼ばれる)で、ヨーロッパでもっとも話題を集めたのは、11月29日にブリュッセル(ベルギー)で摘発されたセックスパーティの事例だろう。
AFPなどによれば、COVID予防のために夜間外出・集会禁止令が発令中のブリュッセルで、市中心部の中央警察署からほど遠くないバーの2階で行われていたセックスパーティが摘発され、25名が取り調べを受けた。警察が踏み込んだ時、25名全員が全裸。身分証明書の提示を求められた主催者のひとりは、「パンツもはいてないのに、身分証明書などあるわけがない」と釈明したそうである。25名のうち、2名が外交官、もうひとりはハンガリー出身の欧州議会議員ヨジェフ・サイエル(Jozsef Szajer,59歳)。彼は、裸のまま雨どいを伝って屋根に逃げたが、間もなくパトロール中の警察官に見つかり、薬物所持と夜間外出禁止令違反で逮捕された。この事件が、大きなニュースになったのは、ヨジェフ・サイエルが、ハンガリーのオルバン現首相の盟友で、しかも反・同性愛を主張する有力政治家だったから、とのこと。
こうした事例を取り上げたのは、それぞれの事例の善悪を云々するためではまったくない。パリのカフェの光景も、街角のキス・ポスターも、反マスクデモも、こうした秘密パーティの続出も、いずれもが、私たち人間がもつ本源的な特性、すなわち「他の人びとや事物との直接的かつ生々しい関係を求める欲求」の表出に他ならない、そう指摘したかっただけのことである。
サイボーグ化する身体
ところで、山極さんと話がしたかった3つめのトピックスは、動物そして人間のサイボーグ化についてであった。ご存じのように、生物工学あるいは遺伝子工学の研究開発の速度は21世紀にはいって加速度的に速まり、遺伝子工学の関心対象(市場)はまず植物から、そして動物へと広がり、いまは培養肉の製造販売直前の段階にきている。また、臓器の再生技術がさらに進めば、いっそう多くの人々が大きな恩恵を受けられるようになる。だが、他方で、私たち人類の身体はますます、サイボーグ化していくことは避けられないだろう。こうして、私たち人類の身体はー私たちがどんどん長寿になり、ますます不死に近づいていくことと引き換えにーホモサピエンスとしての身体から離れ、それこそユヴァル・ノア・ハラリのいうところのホモ・デウス(注3)の身体にアップグレードされていく可能性は高い。いま、私たちは、逆戻り不可能の地点point of no-returnに来ているのかもしれない……。
私が山極さんに投げかけたテーマは、「パンデミック状況下で〈人類〉の文明の行く末について考える」というものであったが、このテーマ文の中では、社会という言葉もないし、しかも〈人類〉にカッコがつけられている。その理由は、そもそも「社会」という時の、その構成員は誰なのか、また、私たちが永遠普遍の存在と考えている「人類」はこれまで同様の人間のままでい続けられるのか、そうした疑問が、現下のパンデミック状況の中で(あるいはその陰で)急に浮上してきたように思われてならなかったからである。
これで私のブログはひとまず終わりですが、これはブログというよりも、モノローグだったのではないか、と恐れます。ここまで、私のだらだら文を読んで下さったみなさん、どうもありがとうございます。どうか、くれぐれもお元気で春をお迎えください。
注1)原著:Guns, Germs, Steel The Fate of Human Sciences, by Jared Diamond, 1997. 本書の日本語訳(草思社文庫、2012年)はとても読みやすいが、大きな欠陥がある。たとえば、"five major human groups"を「5つの人種が」と訳すなど、「人種」の用語の濫用が随所(ざっと調べてみただけでも20か所)にあり愕然とする。
注2)https://www.cnn.co.jp/world/35164516.html、20210102,15h39
注3)ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』(河出書房新社、2018年) 原著:Homo Deus, a Brief History of Tomorrow, by Huval Noah Harari, 2015.